クライアントの企業で、次期リーダー候補の若手社員のコーチングを行っています。

仮にAさんとしましょう。

 

 

これまで数か月にわたってコーチングを重ねてきて、

互いの信頼関係も深まってきたこともあり、

Aさんは自分がいろいろ考え、悩み、疑問に思っていることを積極的に話してくれました。

 

「愚痴になってしまうんですけど・・・」と前置きをした上で、

「ほかの人たちと自分との温度差を感じる」とか、

「自分から声をかけているのに、返事もしなかったり、だらだらしたりする」などと続き、

 

さらに、

「人の上に立つリーダーは、自分には難しい」

「結局、●●課長がいるから、結局、自分はひいちゃう」

 

ということでした。

 

そこで、私の方から、以下のような話をしました。

 

*******

 

どうも、リーダーシップについて勘違いをしているかもしれないね。

 

ヒツジの群れをコントロールするように、

他人を意のままに操ること、他人をリードすることをリーダーシップと思っているでしょ。

 

私も、会社員時代はそうだったから、よくわかるよ。

 

 

まず、はっきりさせておきたいことは、

課長であることと、リーダーであることとはまったく別のものということ。

 

課長という役職、課長という権限は、会社から選ばれて得られるもの。

 

でも、リーダーは、誰でもなれる。

いや、むしろ、一人ひとりがリーダーでなければならないっていうこと。

 

 

ちょっと、別の話をしよう。

 

Aさん、あなたの嫌いな食べ物は何?

「トマト」

 

じゃあ、今私がピストルをあなたの頭にあてて、

このトマトを食べないと引き金を引くぞと言ったらどうする?

「食べる」

 

そうだよね。多くの人は、そうだ。

 

多くの人はと言ったのは、そうじゃない人もいるということ。

地球にいる何十億人の中には、

「いや、俺はトマトを食べるくらいなら、死んだ方がましだ」という人もいる。

 

どんなに脅されても、人には、選択の自由が残っている。

トマトを食べるかどうか、選ぶことができるのだ。

 

もちろん、選択の自由には、結果の責任が伴う。

トマトを食べないという選択をすれば、死ぬという結果の責任を負う。

 

結果の責任を負うことができれば、いつでも人間には選択の自由がある。

 

これが動物と人間の決定的な違いだ。

 

例えば、犬に食べ物を与えるときにベルを鳴らして与えることを繰り返すと、

食べ物を与えなくても、ベルの音だけを聞けば犬はよだれを出す。

これは、刺激に対する反射的な応答だ。

 

動物は、刺激と反応はつながっている。

刺激を受ければ、反応は決まっている。

 

ところが、人間は、刺激と反応の間にスペースがある。

 

そのスペースには、選択するというスペースがある。

人間は、刺激に対する反応を選ぶことができるのだ。

 

ピストルを突き付けられた人は、自動的にトマトを食べるかというと、そうではない。

トマトを食べるかどうか、選択の自由が残されているのだ。

 

 

さて、話をもとにもどそう。

 

他人を意のままに動かすことがリーダーシップだと思ったら大きな間違い。

自分は課長ではないから、あいつらを動かせないと考えていないだろうか。

 

例えば、突然、社外のコンサルタントの私がこの会社の課長に任命されて、

●●さんが課長から降格されて、ただの平社員になったとしよう。

あなたは、平社員の●●さんの言うことを聞かなくなるか?

「いえ」

 

でしょ。

●●さんが課長だからあなたは言うことを聞いているのではない。

 

たとえ平社員となったとしても、●●さんのいうことを聞くのは、

技術や人格などで、●●さんを尊敬、信頼しているからでしょう。

 

一方、私が課長として、「いうことを聞かないと、今月の給料はないぞ」と言ったとしたら、どうだろうか?

 

しぶしぶ言うことを聞くかもしれないが、心の中では「何言ってんだ、この野郎」と思うでしょう。

ひょっとしたら、あなたは、言うことを聞かないという選択をすることもできる。

 

ピストルを突き付けたり、処罰や減給をちらつかせたりして、見かけ上、言うことをきかせることはできる。

ある意味簡単なことだ。

 

でも、それはリーダーシップとは言わない。

 

役職という権威を使ったり、脅したり、怒ったりして言うことを聞かせることは、

リーダーシップとは全く別のものだ。

 

 

さて、リーダーシップとは、何かをリードする、導くことだ。

でも一体、何を導くのだろうか。

 

ここで、あなたが思っているリーダーシップの定義を変えてみよう。

 

実は、本当のリーダーシップとは、他人を導くことではない。

何を導くのだろう?

 

そう、自分を導くのだ。

 

他人を導くのはとても難しい。

きっと、数学の入試問題よりも難しい。

 

他人を導くのは難しいが、自分で自分を導くのはずっと簡単だ。

 

では、自分をどこに導くのだろうか?

悪い自分へ導くのか? 

それとも、理想の自分へ導くのか?

 

もちろん、理想の自分だね。

 

なんで、理想の自分に導かなくてはならないのか?

 

もし自分を導くことをしないで、何も考えず、

ただ、だらだらと楽をして生きていたとしたら、

いつの間にか、勝手に素晴らしい理想の自分に近づいていくだろうか?

 

新品の鉄くぎを思い浮かべてみよう。

 

ピカピカだったその鉄くぎは、時間がたつと、だんだんと錆びていくよね。

 

その錆びた鉄くぎを、そのまま放っておいたら、

いつの間にか勝手に新品同様のピカピカの鉄くぎにもどっていくだろうか?

 

放置して腐ってしまったマグロの刺身が、

何もしないのにいつの間にか勝手に新鮮な刺身にもどるだろうか?

 

そう、この世の中は、残念ながら、何もしなければ崩れていくのが自然の方向だ。

 

別にこのままでいい。

何もしたくない、挑戦も努力もしたくない、楽に生きたいと思っているとどうなるだろうか?

 

放っておいて、勝手に、理想の素晴らしい自分になっていくだろうか?

 

そんなことはない、錆びた鉄くぎが、勝手にピカピカにはならないのと同じだ。

だから、自分で自分を、理想の自分に導いていくのだ。リードするのだ。

 

自分で自分をリードしない限り、崩れていくのだ。

 

そして自分で自分をリードしない限り、他人があなたをリードしてしまうだろう。

 

他人につくられてしまう人生なんて、まっぴらごめんだ。

自分の人生は、自分でつくりたいようにつくる。

 

理想の自分を描いて、それに向かって自分をリードしていこうとすれば、

少なくとも理想に一歩ずつ近づいていく。

 

 

リーダーは人の上に立つことだと考えると、難しくなる。

人の上に立とうとしなくていい。

ただ、理想の自分になろうと努力すればいい。

 

理想は自由に描くことができる。

 

皆に愛され、皆に信頼され、

「あなたの言うことなら聞くよ」と言われるような自分を理想に描いてもいいし、

 

匠の技をもつスゴイ職人を理想にしてもいいし、

腕のいい職人でありながら営業もできてお客様から指名されるような自分を理想に描いてもいい。

 

極端に言えば、皆から嫌われて、孤独に生きていく自分を理想に描いてもいい。

 

 

人はいつだって選択の自由をもっている。

理想の自分を選ぶことができるのだ。

 

そう、自由なのだ。

 

自由に描いた理想の自分に近づくために、

目の前の困難に立ち向かい、努力し、問題を解決することによって成長していく。

 

理想に向かって一歩ずつ進んでいくことができる。

困難があればあるほど、成長できる。

課題が難しければ難しいほど、成長できる。

 

そうやって、自分を理想の自分に導いていく姿は、他人に必ず伝わる。

そして、そして信頼を得ることができる。

 

 

逆に言えは、自分が自分をリードする「見本」になることでしか、人をリードすることはできない。

これをメンタリングって言うんだ。

 

 

自由とは、自分に由ると書く。

 

つまり、自分の人生を自分の選択によってつくりあげていくことができれば、自由であるということ。

リーダーシップとは、自分に由るということ、そう、自由であること。

 

 

さあ、理想の自分を、自由に描いてみよう。

それが今日の宿題。

 

またお会いしましょう。

 

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